「よき人の よしとよく見て よしと言いし 吉野よく見よ よき人よく見つ」
我々アナウンサーは天武天皇が作ったというこの歌をヤ行の発音練習に使う。私も何千回も口にしてきたと思う。ということは一体何回「よし」と言ったことになるだろう。そんなに「よし」なら、いつか見に行こうと思っていた。そうだ、明日行こう。金曜日に突然決めた。即断即決。というか、天気予報はめちゃめちゃいいのに、週末することがなかったのだ。
「俺は明日吉野へ行く」高らかに宣言すると、一緒にニュースを担当している渡辺アナが同行を申し出た。渡辺アナは大学で日本史を専攻していた。卒論のテーマは「壬申の乱」。壬申の乱を起こす前、天武天皇が隠棲していたのが吉野であるからして、渡辺アナはかなりの吉野通のはずだ。道案内してもらうことにしよう。
「卒論で書いたくらいだから、当然吉野に行ったことあるんだよね?」
「ありません」
「ないの?!」
「ありません」
「行かずに書くとは、この机上の空論女め!」
思惑が外れて、口汚くののしる私。相変わらず下の者に対してはほれぼれするほど強い。
「そもそも何で壬申の乱を書こうと思ったわけ?」
「壬申の乱って面白くないですか?」
「いや、わからんけど」
「面白いんですよ」
「卒論ってどういう風にまとめたわけ?」
「普通に」
「何だ?普通って・・・」
「普通に壬申の乱の研究を・・・」
渡辺アナの口ぐせは「普通」と「すごい」の二つだ。世の中の8割のことはその二つのどちらかなのだ。私は彼女が「普通」とか「すごい」という言葉を口にするたび、もっと具体的に話すことを要求する。というか、普通に壬申の乱を研究することなんかありえないではないか。
「壬申の乱というか、その前の皇位継承についてですね。天智天皇は皇位継承の方法を変えたんです。それまでのパターンでいくと弟の大海人皇子が継ぐべきところを、自分のムスケに・・・」
ちゃんと話し始めたと思ったら、噛んだ。ムスケってどこの毛だ!
突っ込み甲斐のある同行者を得て、翌朝7時、近鉄特急で名古屋を出発した。車窓から流れる景色を見ていると日本人はつくづく桜が好きなのだなあと思う。いたるところで桜が咲き誇っている。いいなあ、日本の春は。春らしいBGMが頭の中で流れ出す。「♪サクラーサクラー今咲き誇る、ニャニャニャニャ・・・」「咲き誇る」の後の歌詞は覚えていない私だ。
奈良県に入り、橿原神宮前という駅で吉野行きの特急券を買い求めようと窓口に行ったのだが、まだ9時前なのに、すでに11時の分まで満員ということだった。
「どうすればいいですかね?」
「臨時急行が出ますから、それに乗ってください」
「何番ホームですか?」
このやりとりの間、駅員と目が一瞬たりとも合わなかった。全ての問いが私の口から発せられたにもかかわらず、男性駅員はずっと私の斜め後ろにいた渡辺アナに向って説明していた。視線の全てを渡辺アナに注ぎきっていたのである。何という男らしい駅員だ。でも、男である前に駅員であるべきではないのか!
臨時急行も、帽子を被り、リュックサックをしょった、いかにも吉野を目指している人ばかりでいっぱいだった。立ちっぱなしの一時間だ。急行とは名ばかりののどかな運転が続き、いらいらが募る。途中には飛鳥という魅惑の観光地があり、ぶらりと途中下車の旅に出たくなったが、何とか耐えた。ずっと右側に見えていた吉野川を渡ると、そこが吉野だった。
つづく
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