FEAUTURE特 集
ザ特集
義元公が討たれた場所は?
19.05.29
今川義元の生誕500年となる2019年、
桶狭間の戦いを巡るある「謎」に
改めて注目が集まっています。
豊明市にある真言宗、高徳院。
やってきたのは
静岡市の商工会のメンバー。
静岡市では2019年、
今川義元生誕500年祭を企画していて、
調査のため、義元公ゆかりの地をまわっています。
彼らのお目当ては・・・
この寺が所蔵している
「桶狭間の戦い、今川義元最後の図」。
公開されるのは15年ぶり。
今川義元の最後を描いた貴重な作品です。
織田信長が奇襲をかけ、
今川義元の大軍を打ち破ったとされる桶狭間の戦い。
しかしその戦いには、ある謎が・・・
それは・・・
奇襲をかけられた義元公がどこで討ち取られたのか?
いまだ特定されていないのです。
説は2つ。
ひとつは名古屋市緑区の東南にある桶狭間地区、
もうひとつは豊明市のこちらの場所です
今川氏本陣は名古屋市緑区にあったと主張するのは、
桶狭間古戦場保存会の梶野泉さんです。
案内されたのは・・・
初代尾張藩主徳川義直が残した文献には、
今川義元の本陣は桶狭間山という
山の北側にあったとの記録があります。
清洲方面から南下してきた織田軍を迎え撃つため、
山を背にして陣をとったといわれています。
信長の奇襲をうけた義元公は山の西側に逃げようとしましたが、
泥に足をとられて遠くにいけず、本陣から数百メートルしか
離れていないこの場所で討ち取られたと梶野さんは話します。
「これが一番古い石碑 義元公の
(義元は)本陣から西のほうへ向かった
あまり行けず深田に足を取られて進めなくなった
織田軍の精鋭にやられてしまった」
(NPO法人桶狭間古戦場保存会の梶野泉さん)
この説に真っ向から異議を唱えるのは・・・
とよあけ桶狭間ガイドボランティア 堀田忠夫さんです。
「これが 我々が言っている桶狭間山
たぶん緑区はこの辺を桶狭間山と
我々はホシザキ電機のところを
(桶狭間山と)言っている」
(とよあけ桶狭間ガイドボランティア
堀田忠夫さん)
その根拠は、信長の生涯を記録した信長公記にあると話します。
「信長は 今川本陣に向かって
東に向かって攻めたと書いてある」
(とよあけ桶狭間ガイドボランティア 堀田忠夫さん)
当時織田軍の陣は今の名古屋市と
豊明市の境にあったと言われています。
記録が正しいのなら、今川軍の本陣は、
豊明市側になければなりません。
「むこう(緑区)の話だと西なんです 全部逆なんですよ
はっきり言って見たわけじゃないから分からんけども
(書物に)書かれていることは事実ですよね」
(とよあけ桶狭間ガイドボランティア 堀田忠夫さん)
19日、名古屋市緑区で桶狭間の戦いの
戦没者慰霊祭が行われました。
ところがそこに豊明市の堀田さんの姿が・・・
いったいなぜ?